まぁ念じても起きないわけで
北川の「物語?」などを読んでた。
あー、そうそう、よくもわかりやすく言葉にできるもんだ。俺はめんどくさいから言葉にしようと考える途中で止めてしまうのに。
たまに、一人でぼーっとしてる時に実存について気になる時はある。
最初は小学4年生のころ、鏡に映る自分の姿をみて「自分」という存在の存在意義と存在の不確定さについて考えた。(こんな言葉で表されるような難しそうな感情じゃないんやけど。その時は言葉にできんかった。)周りの子はそれに気づいていたのか気づいてないのかしる由もなく、やったけど。
なんでぼくは今ここにいるんだろう?
ほんとうにぼくはここにいるんだろうか?
今ぼくが感じている「ぼく」はいったいどんなものなんだろう?
鏡のなかの君は誰?
「光の反射だよ」
ねぇおかあさん、ぼくが考えてることわからないの?そんなことを聞きたいんじゃないのに。
こんな感じかな。
おかんに聞いたら見当違いな答えが返ってきて(そんときはなんか答えられたきがしないと感じただけやったけど)がっかりした記憶もある。最後の行ね。
こっから先考えるのめんどくさいので北川の文の引用。あかんかったら言うて〜。めんどいけど自分で考えるから。
キノコ一つで歪んでしまう世界に現実、実存するものを定義し直すのは大切なことやと思う。俺らは結局、個人の中には個人の現実が存在して、つまり目の前の例えば俺がみている現実があって、それら個人の現実が重なるところが本当の現実、実存であるという結論に至った。逆に言えば、個人の現実は重なりあわなければならない必然性というものはあまりないわけだから、共通認識された現実は実に不確実なものであり、さらにその中で使われる共通言語というものはより不確かなものだといえると思う。
これは言葉のお話?やとおもうんやけど。
まぁ、そう、共通認識された現実は実に不確実なものであると俺も考えます。
あぁ、皆起きたし眠くなってきた。シャワー浴びて3限行ってきます。