はい、考えます。
てか昨日一睡もせず今日は夜10時くらいまで練習したあと、大畑が家に泊まりに来た。
で今2時半。
寝ようと思ったら大畑が俺の布団を占領して寝てる。
…
そんなばかな。
あんまし眠くないので考えますか。
今回考える事は「考えること」について。
ある奴の日記で、「考えてる奴はなにがそんなに偉いねん?」って話がありました。
…
いや、わからんよ。
別に偉くないんじゃないですか?
数学や理科といった高校までで習う『勉強』は考える事によって点数が上がる。点数の高いものが偉いという教育をされてきた日本の人は、考える→点数が高くなる→偉いみたいな図式が頭の中にあるんじゃないでしょうか。
…「偉い」人っていうのは、なんなんだろう、なにか特殊なものを持っている人、あるルールの中で同じことをやっても人より優れている人が「偉い」人になるんではないでしょうか。
それが経済の話にしろ、サッカーにしろ、野球にしろ、そのルールの中では、ルールに求められている結果をよりすごく出した人がより偉い人になるのでしょう。
普段生きている中で偉いとはナンだって考えます。
ルールは一体なんだ。んー…人それぞれか。いや、金を稼ぐことか?んー…やっぱり人それぞれかな。
サッカーがむちゃくちゃ上手いやつは、サッカーというルールの中では偉い。けれど例えば太鼓を叩くというルールの中では「あらそう。」で終わってしまう。サッカーを主張し続けるとただの痛い子になってしまう。
これと同じようなことが「考える事」にも当てはまるんではないでしょうか。
ただ、「考える事」は皆できます。多分。あれ、ホンマか?まぁいいや。できるとします。
だから「考える事」っていうのは人間の偉さを決める判断基準として最もよく使われるんじゃないでしょうか。
楽器にしても運動にしてもそうですが、詰めて行けば色々と「あぁ、なるほど。」ということが見えて来ると思います。
「考える事」も一緒のようなもので、色んなことを考える事により、色んな視点を持つ事ができるようになると思います。
その色んな視点を持っている人から見ると、視点の少ない人は薄っぺらな人に見えるんじゃないでしょうか。
サッカー上手いやつが下手な奴に「お前はここが駄目だ」と言うように、色んな視点を持っている人はいろんな視点を持っていないひとに対して「ここが見えてないからだめだ、君は考えてないから駄目だ」というふうになるんじゃないでしょうか。
考えてる奴は、偉いんじゃなくて、視点がいっぱいあるから、薄っぺらに見える人に対して「そりゃだめだ」といえるんでしょうね。